石上神宮は天理市にあるので、博物館である「天理大学付属『参考』館」に寄りました。昔は「雑多に並んでいた」が今は数も配置も整理されたそうです。確かに学問的な一級品揃いな感じでした。この辺りは「布留遺跡」で、編年に使われる土器に特徴のある、古墳時代の早期の遺跡ですが残念ながら遺物の展示はそう多くありませんでした。
参考館 | 布留遺跡遺物 |
秋田の友人は「天理教は知っているがここまでのものとは思わなかった」と驚いていました―ブログ素人も―。高台から見渡すと、一帯に5~6階建ての瓦屋根と窓に欄干風の構造物、朱に塗られた窓枠の神社風とも和風とも中国風とも見える建物が散在しています。明日、何かのイベントがあるということで、黒い法被姿の老若男女(若が目立つ)をあちこちで見ることができ、車で走っていると府県名や都市名の付いた「詰所」おそらく宿泊所か幾つも幾つもありました。
本殿 |
立派な建物群はどれほどの費用がかかったのでしょうか? あの半分でも別に使えれば、助かる人たちも多かったろうに??…という「ど素人」的思いが沸き上がります。
古墳時代のアマチュア研究者から見れば、本来、民衆を率いる公的な性格を持った筈の指導者層が、そのうちに民衆からは別格の存在となり、権力・財力を集中させ、それらを維持するための様々な仕掛け、例えば権「威」を誇る装束、巨大な墓、宮殿、神社や寺院を造りました。これらは、その一方では平安時代半ばでも農民は弥生時代と変わらない竪穴住居に暮らしていた事実と重なって見えてしまいます。
商店街の小さな食堂で昼食を採り、近くの石上神宮へ。
石上神宮は、書記の神宮2宮(伊勢・石上)の一つで、軍事氏族の物部氏が祭祀したとされています。社は鎌倉時代のものですが、形は仏殿風です。中世は興福寺と争い、戦国時代は織田信長勢に破れ、明治になって再興しました。8世紀初頭に石上神宮の社宝を山城葛野に移した時に延べ15万人を要したとされ、古代において、武器庫の役割をはたしていたと されています。拝殿の裏に禁足地があります。丹後の真名井神社の後ろにも神域がありますが、非常に古いスタイルのようです。拝殿の後ろに本殿がありますが、禁足地からの剣や玉といった出土物を収めています。
拝殿(国宝) | 出雲建雄神社拝殿(国宝) |
数年前、箸墓古墳から山辺道を北に歩いて古墳を巡ったのですが、途中で大雨に合い、断念したことがあります。ここが終点予定でした。鬱蒼とした木々の中を山辺道が繋がっていました。