先ずは、恵解山古墳へ。
恵解山古墳は、戦国時代に城か砦に使われて、江戸時代には墓地に。ひどく変形していたらしいですが、例によって国史跡となって大変貌しました。子供たちが前方部の正面上り口の階段で遊んでいたり、親子が周溝の芝生を散歩していたり、夫婦が犬を散歩させていたり、古墳遺跡の市民サイドの使い方を見せていました。
周溝に造り出しが前方部よりの両側にあって、前方部から見て左側に方形のもの、右側に非定型の洲浜となっており、水鳥埴輪が出土しています。造り出しから蓋埴輪や家形埴輪が出土しており、この古墳は5世紀前半の築造とされています。かなり有力な豪族だったことが窺えます。前期末から中期前半といわれる古市の津堂城山古墳では島状州浜式の両側遺構が見つかり、最大級の水鳥埴輪が出土しています。時期的にも合っているようです。後円部寄りの前方部での片袖式造り出しは精美な両袖式に少し遅れて出現し、両方とも横穴式石室葬制となる後期に及んでいます。不整形の両袖式は例が少ないようですが、水鳥埴輪を伴う、州浜式は稲作儀礼を王権が墓制に取り込む、何らかの指標になっているかも知れません。
小倉神社近くにある帆立貝式古墳を見ておこうと思って神社までいったものの分からずじまいで、北に向かいました。
元稲荷古墳に向かっていたのに、通り過ぎてしまったらしく、五塚原古墳というのがあったので、見ておきました。
五塚原古墳レーザー解析像 |
たくさんの住民が魚釣りを楽しんでいる堀傍の北口から入り、周遊路を半周して、墳丘部に上り、直接北口に戻りました。
夕日が傾いており、「ここまで」と決めて家に向かいました。