2016年10月9日日曜日

乙訓の古墳へぶら~り

雨が降っていた朝も、9時半には曇り空となったので、「天気予報から大きく外れないなぁ」と思って、機会をうかがっていた「淀川北岸上流の古墳」をブラッと見に行きました。

先ずは、恵解山いげのやま古墳へ。
恵解山古墳は、戦国時代に城か砦に使われて、江戸時代には墓地に。ひどく変形していたらしいですが、例によって国史跡となって大変貌しました。子供たちが前方部の正面上り口の階段で遊んでいたり、親子が周溝の芝生を散歩していたり、夫婦が犬を散歩させていたり、古墳遺跡の市民サイドの使い方を見せていました。
周溝に造り出しが前方部よりの両側にあって、前方部から見て左側に方形のもの、右側に非定型の洲浜となっており、水鳥埴輪が出土しています。造り出しから蓋埴輪や家形埴輪が出土しており、この古墳は5世紀前半の築造とされています。かなり有力な豪族だったことが窺えます。前期末から中期前半といわれる古市の津堂城山古墳では島状州浜式の両側遺構が見つかり、最大級の水鳥埴輪が出土しています。時期的にも合っているようです。後円部寄りの前方部での片袖式造り出しは精美な両袖式に少し遅れて出現し、両方とも横穴式石室葬制となる後期に及んでいます。不整形の両袖式は例が少ないようですが、水鳥埴輪を伴う、州浜式は稲作儀礼を王権が墓制に取り込む、何らかの指標になっているかも知れません。

小倉神社近くにある帆立貝式古墳を見ておこうと思って神社までいったものの分からずじまいで、北に向かいました。

元稲荷古墳に向かっていたのに、通り過ぎてしまったらしく、五塚原いつかはら古墳というのがあったので、見ておきました。

五塚原古墳レーザー解析像
五塚原古墳は、前方部が撥形に広がる前方後円墳で、箸墓古墳やオオヤマトの大王墓とされる古墳と同じ形式です。そうだとするどういう関連があるのか興味深いところです。埴輪や特殊器台といった遺物が出土していないので箸墓以前と考えられているようで、周濠もありません(山稜を平削して墳丘を平地から見上げる弥生終末期の墓制の伝統なら、時期だけでなく「中央王権から遠い」ことも考えられます。私見)。3世紀後半(末か?)から4世紀前半とされているので、恵解山古墳の100年前ということになります。前方部の後円部に向かう下り斜面が急で、サイズの割にはかなり高い感じです。

たくさんの住民が魚釣りを楽しんでいる堀傍の北口から入り、周遊路を半周して、墳丘部に上り、直接北口に戻りました。
夕日が傾いており、「ここまで」と決めて家に向かいました。