2016年10月5日水曜日

キトラ古墳壁画見学会へ・・・のついでに

久しぶりに古墳に上りました。友人 AMIM 氏がキトラ古墳の壁画の特別公開に応募してくれて当選、その見学に行きました。

ちょっと時間があったので岡寺駅で降り、丸山古墳に上りました。欽明天皇陵説が有力ですが、奈良随一の大きさ、日本第6の大きさ、時代を考えるとまぁ正しいと思っています。地域の農民が耕してしまい、後円部上部だけが参考陵墓地として囲われ、木が茂っています。一般的なこんもりと木々に覆われる風景ではありませんが、長大な前方部と盛り上がった後円部の古墳の形は電車の窓から確認でき、巨大です。有名な石室の羨道入口くらいは分かるかも知れないと囲いまで上りましたが、案内板はあったものの確認できませんでした。


飛鳥駅からバスでキトラへ。「四神の館」に早めに入ったので2つ先のグループに入れられ30分弱見学できました。敏達天皇(欽明天皇の子)陵とされる太子西山古墳あたりが最後の大王前方後円墳で、キトラ古墳はそのあと7世紀末~8世紀初めの円墳で、高松塚古墳とほぼ同じ時代です。多くの渡来人が登用された蘇我氏権力の下で推し進められた、技術・文化・宗教・政治システムの「近代化」路線は、大化以降も継続され、中国じかの交流の試みも遣隋使に続いて遣唐使となったわけです。キトラ「古墳」の規模や副葬品から、身分はそれなりに高く、政権中心内の有能な第1級の「官僚」の立場であった人の墓だとすると、律令制化のプロセスをよく反映している感じです。北の檜前ひのくまは、渡来系の東(倭)漢やまとのあや今来漢いまきのあやの拠点地であり、それと何らかの関連のある人の墓と考えるのが自然かな?。


時間が余ったので、奈良歌姫の友人T夫妻のお宅を訪問しました。二人とも、他の学者・研究者と一緒に、現役で古代史を深く研究し、夫婦してあちこち回っており、最近参加した、中国の「燕」の地の遺跡を巡るツアーの話を聞きました。事前に読めと渡された資料は分厚くて、半分以上中国語で、日本語資料は専門的で知らないことも多く、興味をそそられるものの「うっかり参加したらえらいことやったなぁ」というのが私のセリフでした。学者や研究者用のツアーとのこと。

何年か前に、南日向から大隅の古墳を見に行きたいと漏らしたことがあって、行っていないもののテーマとして話題になりました。T夫氏の「生目や西都原の地域統合の権力の状況と展開」「中央の大王に妃を出したこととその前後の状況と展開」があって、その後に伝承や意思を正史に持ち込もうとしたのが「神武東遷」の話かも知れないというのは興味深い話でした。日向に行くのは暇と金ができたらの話…