2024年3月18日月曜日

梅見巡り

 梅見の最終日

3月3日(日)

池田市水月(みなつき)公園の梅林を散策した。気温は低かったが陽当たり場所では然程でもない。春だ。

水月公園は我が家から10km離れ、車で20分かかるが、遠くではないが近くでもない。梅林おそらく2度目の訪問だが何時かは思い出せない。この梅林は、広め(よくある梅林の2倍)の斜面に、「開花期のばらつきの小さな品種」になっている。距離を置いて眺めると桜の花見のような華やかさを見せる。梅の間を散策すると、よい香りがズーッと漂っている。斜面の上方からは「公園の池を見下ろせる」ので別の景色を見せる。

3月2日(土)

桃山台・桃山公園の春日大池を昼過ぎに1周した。この池は、我が家から20分歩いた所にあって、1周にまた20分かかるから1時間の散策だ。残念ながら梅の木は20本程度で、早咲きではないものの落弁が多かった。池にはオオバンのペアとマガモのペアが確認できた。

3月1日(金)

茨木市の南の「元茨木川」堤の梅を散策した。あまり事前に調べなくて、車で摂津南ICで下りて南下したら淀川に出てしまい、摂津市役所まで戻って「案内」の人に聞くという手間を取ってしまった。市役所北の階段を上がると堤で、北へ歩くと府道14号線との中央環状跨橋超えて更に北に進むと元川公園の入り口「沢良宜」公園に入る。河川敷の遊歩道を歩き切るといよいよ、自動車道を超えて梅が花を咲かせていた。

川堤の梅や桜は手入れが大変なのか、梅「林」と違って見窄らしを感じる。


2024年2月25日日曜日

梅見 II

 服部緑地の梅林を訪れた。梅は桜と違って、花は長持ちする。桜は色だが、梅は香りだ。

乗馬C東の駐車場に車を止め、円形花壇を外れて梅林の花見に出かけた。それなりに札が付き、品種が分かる。緑萼は花弁に色が付かない白が、多くの品種は萼に赤みがあって花弁に赤みが付く。ところが、内側にピンクがかかっていたり、逆に外側にピンクがかかっていたり、しかも成長の度合いで色の幅が違う。外側は時間の経った状態だろうから、元来白が萼からの赤身でピンクに色付いた品種、逆にピンク系が萼から色抜けしたらしい品種、濃いピンク単色の「楊貴妃」とかいう品種、しかも、一重、二重、三重の花弁数、花自身の大小のサイズ、雄蕊が大きい品種など、桜と違ってバリエーションが多くて飽きない。来年見ても「また忘れてるな」だろうが。

ところで、息子夫婦が孫2人を連れて、梅見にやって来たので合流した。姉の方は、いい言い方をすれば「しっかり」し、地からの素直な人懐っこい幼さがちょっぴり減ったようだ。一方、弟の方は、自身ができたのか人懐っこく自己表現を試みる。言葉もしっかりしている。残念ながら次の予定があったので、残念ながら4人に「お別れ」することになったが、短い時間ながらなかなか、楽しい癒された時間となった。

すくすく育っていて嬉しい。

2024年2月24日土曜日

梅見

 今日は、暖かくて良い天気だった。午後は老人会(コロナ以後は数人の参加だが)だったので、午前中に万博公園の2つの梅林を訪れることにした。

一つは「梅林」、品種札の付いた狭いだがほぼ満開だった。もう一つは「日本庭園」の小さな梅林、品種札のない木が結構あったがほぼ満開だった。

沢山の見学者が来ており、あるペアの女性が梅の一枝に鼻を近づけて嗅いだが「何にも臭わない」と同行男性に報告していた。この梅林の坂道を半ばまで上った時には、私に鼻は、淡い、香りと言って良い匂いを感じ取っていた。周辺に漂っていた。間違いなく「春だ」。

たった2時間の梅見だったが…。


2024年2月23日金曜日

またまたサボり始めているなぁ

開腹手術をする筈の循環器Cと、それにGoを出す筈のA内科医との実践(停止状態)が見えない中、診察では、敢えてその問題を話題にしました。またまた紹介状と予約とその費用を支払うこととなりました。

月末まで待機となりました。10月末と同じです。

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で、ブログもまたまたサボって、ストップ状態なので、少し書くことにしました。

今年は温かく、近くの公園の梅も、緑地公園の梅が満開です。ファーと心地よい香りを嗅ぎながら、木の間を散歩したり、ベンチに座ったりして時間を過ごしました。

nn!!  このいい天気、孫達はどうする??? と思い、息子に電話すると「こっちもそこへ梅見の散歩に行く予定」とのこと。少し経ってから合流しました。

弟の方がジージに積極的にアプローチするようになり、姉の方は今までのような距離感のないアプローチでなく「なるほど、大きくなったんだ」と思わせる自立を見せました。どちらにしても目まぐるしい成長スピードを感じさせます。残念ながら、自分の都合で、孫の顔を少し見て、帰宅しましたが、癒されて満足♡

2024年2月19日月曜日

 この間(1/19~2/19)は、平穏と言えば平穏なひと月だった。市民病院(2/8)の診察結果は、本人でなく、紹介した医師に密封されて直接送付されたらしく、その医師経由でしか分からない。

  1. 患者とまともな情報の共有のできない、しない医師は、自分に縛り付けたビジネス対象としか見ていない可能性が高い。
  2. かかりつけ医師に不信を感じた場合は、紹介状なしで跳び込む必要がある。
  3. セカンドオピニオン医師を探し出すのは難しい。医師どおしのネットワークがビジネス的な利害関係で繋がっていたりする。
  4. 客観的な「医療」「病状」情報の共有となっているとは限らない。医療業界へ忖度や自分の力量評価に関わる部分があると見られる。
要するに、体験を重ねて「金の草鞋を履いて探す」必要があり、医者にかかる機会は、その大きなチャンスだということ。気兼ねなく、かかりつけ医を交替、選択、評価して見つけ出すことが要るようだ。高齢になる前から…

2024年1月19日金曜日

病院に変更

 昨日、指定の検診日でしたが、「循環器科」と「内科」の分裂が、先が見えない。

そもそも、「大動脈瘤切除の回復手術」(国立の循環器専門センター)、感染症の快癒「肺炎症状(感冒?→肺炎)」近隣の内科医を利用していましたが、3ヶ月肺炎症状は軽症状になったものの、改善と悪化の繰り返しながら、新年を迎えて再び「咳」が強くなりました。

で、内科・循環器科が統合される「病院」通いを提起しました。隣市のT病院が提案され、紹介状待ちになっています。

大転換です。



2024年1月15日月曜日

医者・思い出したこと

手術を待つ身だが、思い出した!

息子が当に誕生した時、産科医は「ボタロー菅開大につき直ぐ手術が必要」として承諾書にサインを求めてきた。妻は、怪しみ「母子の転院」を求めた。私は、無知のためイチかバチか認めざるを得ないかと思ったが、妻は、自分の主治医に相談し、転院を強行したのだ。妻は、心臓病を患っていて7才で手術を受けたのだが、その年齢まで手術待ちしたのだった。

実際は、2mm程度の「心室中隔欠損で、手術が必要なら6、7才。穴のサイズから6才くらいで塞がる可能性もある」とのこと。実際には、熱性の異状があり、体温がうまく調整できずに高熱を出すことが多く、時には 40℃ 越えが 4 日も下がらない生活が続いた虚弱な子だったが、4才を過ぎると、発熱ー下熱がパターン化されて、妻の(私もだが)、子供の世話もパターン化 (タオルやシーツを掛けたり降ろしたりする。熱が篭ると痙攣が起こる。水分補給をする。4日程経つと皮膚にジワァッと汗玉が現れ、その後布団がビショビショになる位大汗をかく。熱が下がって親も安心し、御粥あたりから食事を再開する。これを仮眠状態で夫婦交替でやるのだ。) された。6才夏、穴は塞がり翌年最終のチェックとなった。小学生7才頃からその発熱頻度が減り、小5が最後のこのタイプの発熱となった。

さて、産科医が嬰児の胸を開いて、1つの命が逝っても、この産科医は何の咎めも受けなっただろう。

医者は「金の草鞋を履いて探せ」と言われてきた。

私が子供の頃、私や家族が世話になった医者は(私も子供の頃は虚弱だったので)「何でも言え」と言った。「不定愁訴」に手掛かりがあり、検査結果は裏付けるか、絞って行くのに「愁訴」は必要な情報だという。大人になっても私の親はこの医者の世話になっていたが、大学が同じ(私は理学部、医者は勿論医学部)だったこともあって、親が「どんな話してんねぇ!」という位、往診の繋ぎ時間に、そんなに多くはないがいろいろな話を聞かせてもらった。医師会でも地位のある名医だった。2人は目指した学問の道と年齢は大きく違ったが、医師として力を付けていったジグザグも含めたものの評価や、経験や体験の本質的なところでの総括の仕方など学ぶところが大きかった。ある意味、医者を超えた医者だった。

今、掛かっている医者は、パソコンと睨めっこし、採血を繰り返し、検査漬けをやる。結果を印刷し、説明をする。薬の処方は効果と副作用、大体10日から2週間でそれが分かり、必要なら切り替える。で、最初の検診から3ヶ月経ったが、確かに症状は改善したが「完治」には程遠く、肺炎のような軽い症状が延々、延々と続いている。

実は、全身麻酔による手術待ちなのだが、この医師はそろそろ「手術」を言い始めている。症状自体は1月前とそんなに変わらない。その時は手術見合わせだった。

結論:妻が我が子のために医者と対峙したようにやる。医者のご機嫌は無視・・・