京都市周辺では、古墳時代全般を通じて、淀川支流では水運に恵まれた桂川沿いと木津川沿いに営まれます。都の営まれた今の市内は辺境だったわけです。
先に訪れた天皇の杜古墳は、伝承の文徳天皇陵(9世紀半ば)とは異なり、朝顔形埴輪が出土していて前期後半(4世紀後半~末)の前方後円墳だとされています。墳形も、前方部が撥形には開かず大きくもないので、オオヤマトの大王クラスの古墳より少し後、地方の首長クラスの古墳ということのようです。墳丘の中を自由に歩けるのは有難いことです。墳丘の周りは濠でなくて単なる兆域。
後円部から前方部を見る | 前方部から後円部を見る。 |
物集女街道を南下して、向日神社の参道をゆるりと走って駐車場へ。流れ造り様式の本殿(室町時代)右手を抜けると、大きな石碑の立っている元稲荷古墳へ。
前方後方墳です。後方部は方形基部は確認できますが、上部は円形となっています。前方部墳丘中央部から旧いタイプの円筒埴輪や壺型埴輪を出土しているとされています。吉備風の特殊壺などはなかったようで、箸墓古墳より少し後が想定されますが、強く在地の伝統を保持しようとしていたことが窺えます。
右が前方部。石碑背後が後方部。 | 前方部上から後方部を見る。 |
後方部。下段の隅部が迫り出している。単なる崩壊かも知れない。 |
最近では、先に訪れた五塚原古墳の方が元稲荷古墳より古いことになっています。私見ですが、ちょうど3世紀の100年間は大気中のC14の濃度が大きくずれ、C14年代測定の校正がうまくいかない時期であって、箸墓を3世紀半ばとするのは少し強引かな、と考えています。