大阪とは違う夜の気温の中、T氏宅に1泊。今日は石上神宮に立ち寄る予定でしたが、写真愛好家氏の体調が優れず家に帰ることになり、朝食後の10時頃まで雑談して駅までまで送り出しました。
石上神宮は天理市にあるので、博物館である「天理大学付属『参考』館」に寄りました。昔は「雑多に並んでいた」が今は数も配置も整理されたそうです。確かに学問的な一級品揃いな感じでした。この辺りは「布留遺跡」で、編年に使われる土器に特徴のある、古墳時代の早期の遺跡ですが残念ながら遺物の展示はそう多くありませんでした。
2016年10月27日木曜日
西大寺を20分間訪問
一昨日の昼から、半世紀来の友人が秋田から大阪にやって来るということで、同じく半世紀近くの友人である奈良歌姫町のT氏宅の厄介になって、友人たち8人が集まってワイワイガヤガヤ旧交を温めました。
西宮からやって来る古書店運営「みどり文庫」氏に落ち合うまでの30分ほど、秋田の友人と、西大寺駅近くの西大寺を訪問。8世紀半ば、道鏡事件で知られる考謙が重祚した称徳女帝が、「国家鎮護」を祈願して造った寺とされています。この女帝は、聖武天皇の娘で母が光明子です。絶大な権力を私的な恣意に委ね、かつ他者に頼ってしまうタイプだったようで、陰謀渦巻く権力闘争と反乱に明け暮れた時代を作っています。親に対抗し、東大寺と同じレベルの寺を創建しましたが、平安時代に度重なる火災で衰えました。
西宮からやって来る古書店運営「みどり文庫」氏に落ち合うまでの30分ほど、秋田の友人と、西大寺駅近くの西大寺を訪問。8世紀半ば、道鏡事件で知られる考謙が重祚した称徳女帝が、「国家鎮護」を祈願して造った寺とされています。この女帝は、聖武天皇の娘で母が光明子です。絶大な権力を私的な恣意に委ね、かつ他者に頼ってしまうタイプだったようで、陰謀渦巻く権力闘争と反乱に明け暮れた時代を作っています。親に対抗し、東大寺と同じレベルの寺を創建しましたが、平安時代に度重なる火災で衰えました。
2016年10月18日火曜日
息抜きでブラ~リと古墳
コーヒー友達が今日は娘嬢とデートということで、1日暇になってしまったので、ブラ~ッと古墳を訪れました。
川西市の街中を北に進んで小高い山のふもとに勝福寺というお寺がありますが、その裏山、寺の西横にある神社参道の石段を上がり切ると、石灯篭の裏に、案内板とその後ろに「勝福寺古墳」という古墳が見つかります。
この古墳は6世紀初めの「横穴式石室」を持つ前方後円墳では最初期のもので、長さ40mです。
川西市の街中を北に進んで小高い山のふもとに勝福寺というお寺がありますが、その裏山、寺の西横にある神社参道の石段を上がり切ると、石灯篭の裏に、案内板とその後ろに「勝福寺古墳」という古墳が見つかります。
この古墳は6世紀初めの「横穴式石室」を持つ前方後円墳では最初期のもので、長さ40mです。
2016年10月9日日曜日
乙訓の古墳へぶら~り
雨が降っていた朝も、9時半には曇り空となったので、「天気予報から大きく外れないなぁ」と思って、機会をうかがっていた「淀川北岸上流の古墳」をブラッと見に行きました。
先ずは、恵解山古墳へ。
恵解山古墳は、戦国時代に城か砦に使われて、江戸時代には墓地に。ひどく変形していたらしいですが、例によって国史跡となって大変貌しました。子供たちが前方部の正面上り口の階段で遊んでいたり、親子が周溝の芝生を散歩していたり、夫婦が犬を散歩させていたり、古墳遺跡の市民サイドの使い方を見せていました。
先ずは、恵解山古墳へ。
恵解山古墳は、戦国時代に城か砦に使われて、江戸時代には墓地に。ひどく変形していたらしいですが、例によって国史跡となって大変貌しました。子供たちが前方部の正面上り口の階段で遊んでいたり、親子が周溝の芝生を散歩していたり、夫婦が犬を散歩させていたり、古墳遺跡の市民サイドの使い方を見せていました。
2016年10月5日水曜日
キトラ古墳壁画見学会へ・・・のついでに
久しぶりに古墳に上りました。友人 AMIM 氏がキトラ古墳の壁画の特別公開に応募してくれて当選、その見学に行きました。
ちょっと時間があったので岡寺駅で降り、丸山古墳に上りました。欽明天皇陵説が有力ですが、奈良随一の大きさ、日本第6の大きさ、時代を考えるとまぁ正しいと思っています。地域の農民が耕してしまい、後円部上部だけが参考陵墓地として囲われ、木が茂っています。一般的なこんもりと木々に覆われる風景ではありませんが、長大な前方部と盛り上がった後円部の古墳の形は電車の窓から確認でき、巨大です。有名な石室の羨道入口くらいは分かるかも知れないと囲いまで上りましたが、案内板はあったものの確認できませんでした。
ちょっと時間があったので岡寺駅で降り、丸山古墳に上りました。欽明天皇陵説が有力ですが、奈良随一の大きさ、日本第6の大きさ、時代を考えるとまぁ正しいと思っています。地域の農民が耕してしまい、後円部上部だけが参考陵墓地として囲われ、木が茂っています。一般的なこんもりと木々に覆われる風景ではありませんが、長大な前方部と盛り上がった後円部の古墳の形は電車の窓から確認でき、巨大です。有名な石室の羨道入口くらいは分かるかも知れないと囲いまで上りましたが、案内板はあったものの確認できませんでした。