手術を待つ身だが、思い出した!
息子が当に誕生した時、産科医は「ボタロー菅開大につき直ぐ手術が必要」として承諾書にサインを求めてきた。妻は、怪しみ「母子の転院」を求めた。私は、無知のためイチかバチか認めざるを得ないかと思ったが、妻は、自分の主治医に相談し、転院を強行したのだ。妻は、心臓病を患っていて7才で手術を受けたのだが、その年齢まで手術待ちしたのだった。
実際は、2mm程度の「心室中隔欠損で、手術が必要なら6、7才。穴のサイズから6才くらいで塞がる可能性もある」とのこと。実際には、熱性の異状があり、体温がうまく調整できずに高熱を出すことが多く、時には 40℃ 越えが 4 日も下がらない生活が続いた虚弱な子だったが、4才を過ぎると、発熱ー下熱がパターン化されて、妻の(私もだが)、子供の世話もパターン化 (タオルやシーツを掛けたり降ろしたりする。熱が篭ると痙攣が起こる。水分補給をする。4日程経つと皮膚にジワァッと汗玉が現れ、その後布団がビショビショになる位大汗をかく。熱が下がって親も安心し、御粥あたりから食事を再開する。これを仮眠状態で夫婦交替でやるのだ。) された。6才夏、穴は塞がり翌年最終のチェックとなった。小学生7才頃からその発熱頻度が減り、小5が最後のこのタイプの発熱となった。8才になった夏、母親 (妻) は子を残して亡くなった。「お前は2人分の命やからなぁ」の私のセリフも今や忘れられているようだ。
さて、産科医が嬰児の胸を開いて、1つの命が逝っても、この産科医は何の咎めも受けなっただろう。
医者は「金の草鞋を履いて探せ」と言われてきた。
私が子供の頃、私や家族が世話になった医者は(私も子供の頃は虚弱だったので)「何でも言え」と言った。「不定愁訴」に手掛かりがあり、検査結果は裏付けるか、絞って行くのに「愁訴」は必要な情報だという。大人になっても私の親はこの医者の世話になっていたが、大学が同じ(私は理学部、医者は勿論医学部)だったこともあって、親が「どんな話してんねぇ!」という位、往診の繋ぎ時間に、そんなに多くはないがいろいろな話を聞かせてもらった。医師会でも地位のある名医だった。2人は目指した学問の道と年齢は大きく違ったが、医師として力を付けていったジグザグも含めたものの評価や、経験や体験の本質的なところでの総括の仕方など学ぶところが大きかった。ある意味、医者を超えた医者だった。
今、掛かっている医者は、パソコンと睨めっこし、採血を繰り返し、検査漬けをやる。結果を印刷し、説明をする。薬の処方は効果と副作用、大体10日から2週間でそれが分かり、必要なら切り替える。で、最初の検診から3ヶ月経ったが、確かに症状は改善したが「完治」には程遠く、肺炎のような軽い症状が延々、延々と続いている。
実は、全身麻酔による手術待ちなのだが、この医師はそろそろ「手術」を言い始めている。症状自体は1月前とそんなに変わらない。その時は手術見合わせだった。
結論:妻が我が子のために医者と対峙したようにやる。医者のご機嫌は無視・・・