昨日、指定の検診日でしたが、「循環器科」と「内科」の分裂が、先が見えない。
そもそも、「大動脈瘤切除の回復手術」(国立の循環器専門センター)、感染症の快癒「肺炎症状(感冒?→肺炎)」近隣の内科医を利用していましたが、3ヶ月肺炎症状は軽症状になったものの、改善と悪化の繰り返しながら、新年を迎えて再び「咳」が強くなりました。
で、内科・循環器科が統合される「病院」通いを提起しました。隣市のT病院が提案され、紹介状待ちになっています。
大転換です。
昨日、指定の検診日でしたが、「循環器科」と「内科」の分裂が、先が見えない。
そもそも、「大動脈瘤切除の回復手術」(国立の循環器専門センター)、感染症の快癒「肺炎症状(感冒?→肺炎)」近隣の内科医を利用していましたが、3ヶ月肺炎症状は軽症状になったものの、改善と悪化の繰り返しながら、新年を迎えて再び「咳」が強くなりました。
で、内科・循環器科が統合される「病院」通いを提起しました。隣市のT病院が提案され、紹介状待ちになっています。
大転換です。
手術を待つ身だが、思い出した!
息子が当に誕生した時、産科医は「ボタロー菅開大につき直ぐ手術が必要」として承諾書にサインを求めてきた。妻は、怪しみ「母子の転院」を求めた。私は、無知のためイチかバチか認めざるを得ないかと思ったが、妻は、自分の主治医に相談し、転院を強行したのだ。妻は、心臓病を患っていて7才で手術を受けたのだが、その年齢まで手術待ちしたのだった。
実際は、2mm程度の「心室中隔欠損で、手術が必要なら6、7才。穴のサイズから6才くらいで塞がる可能性もある」とのこと。実際には、熱性の異状があり、体温がうまく調整できずに高熱を出すことが多く、時には 40℃ 越えが 4 日も下がらない生活が続いた虚弱な子だったが、4才を過ぎると、発熱ー下熱がパターン化されて、妻の(私もだが)、子供の世話もパターン化 (タオルやシーツを掛けたり降ろしたりする。熱が篭ると痙攣が起こる。水分補給をする。4日程経つと皮膚にジワァッと汗玉が現れ、その後布団がビショビショになる位大汗をかく。熱が下がって親も安心し、御粥あたりから食事を再開する。これを仮眠状態で夫婦交替でやるのだ。) された。6才夏、穴は塞がり翌年最終のチェックとなった。小学生7才頃からその発熱頻度が減り、小5が最後のこのタイプの発熱となった。8才になった夏、母親 (妻) は子を残して亡くなった。「お前は2人分の命やからなぁ」の私のセリフも今や忘れられているようだ。
さて、産科医が嬰児の胸を開いて、1つの命が逝っても、この産科医は何の咎めも受けなっただろう。
医者は「金の草鞋を履いて探せ」と言われてきた。
私が子供の頃、私や家族が世話になった医者は(私も子供の頃は虚弱だったので)「何でも言え」と言った。「不定愁訴」に手掛かりがあり、検査結果は裏付けるか、絞って行くのに「愁訴」は必要な情報だという。大人になっても私の親はこの医者の世話になっていたが、大学が同じ(私は理学部、医者は勿論医学部)だったこともあって、親が「どんな話してんねぇ!」という位、往診の繋ぎ時間に、そんなに多くはないがいろいろな話を聞かせてもらった。医師会でも地位のある名医だった。2人は目指した学問の道と年齢は大きく違ったが、医師として力を付けていったジグザグも含めたものの評価や、経験や体験の本質的なところでの総括の仕方など学ぶところが大きかった。ある意味、医者を超えた医者だった。
今、掛かっている医者は、パソコンと睨めっこし、採血を繰り返し、検査漬けをやる。結果を印刷し、説明をする。薬の処方は効果と副作用、大体10日から2週間でそれが分かり、必要なら切り替える。で、最初の検診から3ヶ月経ったが、確かに症状は改善したが「完治」には程遠く、肺炎のような軽い症状が延々、延々と続いている。
実は、全身麻酔による手術待ちなのだが、この医師はそろそろ「手術」を言い始めている。症状自体は1月前とそんなに変わらない。その時は手術見合わせだった。
結論:妻が我が子のために医者と対峙したようにやる。医者のご機嫌は無視・・・
咳症状は治まらず、不定期、断続的な軽い咳が出ます。咽頭部のイガイガと、咳とも言えない喉の発作様の症状が続いています。食欲は減ったものの維持?。腹周りは3ヶ月で7cm減って喜んではいます。
40年前に、肥満だった体が、月に1kgづつ減り続けたことを思い出しました。身体が軽くなって「調子がいいなぁ」と思っていたら、適当なところで止まるのでなく減り続けたのです。逆に力の出ない重い体に変わり、頬が落ち始め、遂には職場でへたってしまいました。
我ながら馬鹿だと思うのですが、車を運転して掛かりつけ医に駆け込んだのです。当時「胆のう炎」を患っており、石のない「感染」による胆のう壁の肥大があり、定期的に通院していたのです。さて、胆道が閉鎖され、それにつながる膵管もつまり、膵液が逆流して「自己消化」を起こし、カルシウムが沈着してトラの縞模様がレントゲン写真に写っていました。医師は、ただちに点滴してくれました。必要なら管で外に出す、ということで入院先を探してくれたのですが✕、そのまま毎日、1週間毎日点滴を受ける羽目になったのです。
いざ入院となると、抗生剤点滴を受けることとなり、40日間のベッド生活となりました。それでも、白い便も20日も経つと黄色に変わり、体も軽くなって、自分を持て余すようになりました。外出許可が出たのは30日後。
この時ほど、訳の分からん体重減少ではないと「願望」を少し入れて、解釈しています。
新年医者通い初日、待って、診察、点滴再診察のお決まりコースでしたが、処方薬が変わりました。
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実は昨夜、寝る前に USB 100GB 越えのデータを 空スペースが1.5倍ある PC に移動し、10 時間かかると出たので朝まで放置しました。確かに、移動しましたが、使い物になりません。それで、USB 側でデータを3分けしてやり直すことにしました。USB を抜いてやって来たUSB分を削除すると 10 時間かかって削除ははされました・・・が、起動に時間がかかり、アプリも同じで使い物にならない状態でした。
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(1) ; システムが検知している HDD の既使用領域と実際とは齟齬があるということか?
(2) ; システム自身は起動している
(3) ; (1)はレジストリと実際との齟齬?
(4) ; レジストリが管理の上位のはず (でなければ不要)
(5) ; CCleaner を使おう
(6) ; レジストリに合わせヘルスチェックで回復実行。祖語のある大半の領域は解放された模様
(7) ; 詳細クリーンで残存データを消去。
(8) ; 実際と(7)に合わせてレジストリクリーンを実行。
(9) ; 再起動。
(10); (5)~(8)を繰り返した。この処理の進行は通常程度だった。
(11);再起動し、回復。
レジストリに管理される実際の領域との関係に「感づいた」のがうまくいった理由かな!
Windows XP 時代のデスクトップで使われていた (1)前面カバーはあるが (2)ユニットにプラスチック製の背面カバーが覆うだけの「ゲーム機」用スピーカーを息子から貰い、睡眠前のヒーリングに使っています。何とまぁ、PC のヘッドフォンの出力でかなりの大きな音 (1950年代の家庭用ラジオの最大音量程度) が出ます。
広帯域ではないものの、人の聴感にはよく合っているようで、「広帯域」「低歪率」「高価格」とは全く反対の、人の耳で聞くには『高低音の欠落感がない』『刺激音のない穏やかな音感の』、『低価格』のものです。
歳を喰うと聴覚も衰え、それでも音楽を聴く楽しみを続けると、何が「いい音」を考えさせられます。10 年以上を健やかな睡眠に導いてくれた「物」に、不思議に思い出と感慨と感謝の感情が生まれてしまいます。
昨日は、恒例の電話年始挨拶日。個人的な年賀状はまだしも、業者さんの年賀状の虚構性は「もうえぇわ」で100%無視し、形式的なものも縮小しました。半世紀ほど続く、一部の友人と親しい人達も、消息や暮らし向き、自分と同じように時も心身も齢を重ねてこれも自然にテーマに乗りながら、会話も弾むし、年賀TELはOKかなと思っています。
今日は、息子の細君宅に挨拶、息子宅で孫とイチャ付いて、元気をもらって帰宅。身体…しんどかった、こころ…元気出た の矛盾。癒されたのは真実です。
年寄りの病持ちには「寝正月」がふさわしいと、元日はそのように過ごしました。
2日は仕事初めかと、「身辺整理」開始、ガラクタのまま放置した旧いオーディオ機器、パソコンなど一所に集める作業を始めました。ATA 3.5inch HDD 何台か, 7coreの基盤、RCAワイヤーなど。
ところが、1時間しないで体が熱くなり大汗をかき --- 変更された処方薬の副作用かな --- 、息がはぁはぁ言い始めたので、そこまでと中断しました。身体が落ち着くと、続いている微熱が解かされ、軽くなっていました。モードが変わったかな。肺炎症状はまだ残っているが。
おめでとうございます。
元旦に津波とは!観測機器のデータと機関の発表しかないなぁ…知り合いの住処は海岸じゃないのでホッとはしたが、被災の情報が少ないなぁ…21時段階でニュースにのり始めたが...