兄が亡くなって、空き家となった古家の処分をしなければならないことになり、訪れると、60年前にラジオ少年だったころのラジオが残っていました。
60年前、私はラジオ少年でした。そしてその頃、大量の旧いラジオが廃棄されたのでした。
ハマった (少年時代) !!!
太平洋戦争(日本対中米仏蘭英)の後、占領軍はそれまで日本で使われていた、「並三」(検波-電力増幅-電源供給)、「並四」(検波-中間増幅-電力増幅-電源供給) 方式のラジオを禁止しました。1947年です。選択度を上げて混信を減らし、感度を上げる為の「再生回路(放送波の正帰還)」が、『発信』を引き起こし、占領軍の無線通信に妨害を与えたからです。検波回路の前段に高周波増幅回路を置き、検波回路からアンテナに妨害電波を出しにくい「高一」(高周波増幅-検波-電力増幅-電源供給)方式も『煽りを喰って』衰退していきました。 当時のラジオの寿命は5年~10年だったこともあり、これに合わせて大量の買い替えが起こりました。
そして、少年達---私も含む---に「趣味」の「素材」が、「ただ(無料)で」提供されるようになり、ヘマや失敗を恐れずに「やって見て」、「自分のラジオ」を作って楽しむ機会が与えられました。
ラジオ少年への道
ラジオを分解し、「部品取り」し、必要ならシャーシーさえ加工---丸穴はドリルで円周内側に孔を開け、その小孔の繋がり部をニッパーで切って穴を貫通させ、ヤスリでバリ(シャーシの切断面や孔端に出る板屑で、触ると邪魔なだけでなく怪我をしてしまうので取り除く必要がある)取りと整形---して組み立て直し、アマチュア的ではあるものの自己満足度の高いものにしました。中波専用機にロータリースイッチで電源ON/OFFとコイル切り替えをやり、コイルを追加してを2バンド機にして目盛りを書き込んだりもしました。遊びなので年に数台修理し、たまには小遣いになりました。
私の周りには、12~13才そこらの少年が「新進」の技術を持って遊んでるのが結構いたのです。
この頃、1学年16クラスの800人だったので、趣味の少数派でも巡り合う機会があったのです。「棄てられるラジオが家にあるんでやるでぇ」と、歩いて1時間半かかる友達の家まで貰いに行き、担いで持ち帰ったことがあります。
3年になると3球ラジオが「技術家庭科」の技術科の実習内容となり、5~6人で班を作って製作しましたが、音が出るのは2クラス(男女別内容だったので1クラス相当50人弱の人数で授業)で1~2台程度でした。
この「音出し」に成功した少年たちのかなりの部分が、無線やオーディオ、エレクトロニクスに興味を持つようになって行ったようです。
また、中学校図書館には「NHKラジオ技術教科書・基礎編」「NHKラジオ技術教科書・応用編」があって、前者はラジオの初歩的な原理と回路構成への知見、後者は実際の設計や技術的な知見を教えてくれました。ω(2πf)やキャパシタンスやインダクタンスの交流に関する知識を与えてくれました。数学の先生は、この中学生らしからぬ質問に答えてくれました。
ついでにハム
15才の時、友達に誘われて「電話級アマチュア無線技士」の資格を取りました。そのまま何もしないで放置しましたが、4年程経って、807を使った、7MHz帯、21Mhz帯のA3送信機とし、改造(IFTに正帰還を施す)5球スーパーを受信機とし、その頃の我が家の両外壁に竹竿を立ててベントダブレットアンテナにして開局しました。父がTVを購入し、その際のアンテナフィーダを貰って裂き、アンテナ線と300Ω給電線としたものでした。JAコールサインが使い切られてしまいそうだったので、大急ぎの開局でしたが、結局JHコールサインになってしまいました。その後、5球スーパーは、高周波1段、中間周波2段の多バンドコイル切り替えの高1中2スーパー受信機となりました。
エレクトロニクス青年⇒IT青年
その後、ラジオ少年⇒自作オーディオ青年⇒IT青年 の道が敷かれてしまったようです。
大学に進学すると、自分で稼ぎながら、下宿や賃貸アパート暮しするようになり、ラジオ(無線)少年が✕⇒自作オーディオ青年⇒IT青年 の道が敷かれてしまったようです。