2018年11月1日木曜日

湖南の古墳へ

久々に古墳ブログを書きます。

10月30日~31日の2つ日間、AMIM氏、古書店氏の3人で、雪山古墳・安土瓢箪山古墳・神郷亀塚古墳・荒神山古墳の4つを巡りました。湖南~湖東の古墳は先ず、前方後方墳が湖岸平野部に築造され、4世紀にヤマト型の前方後円墳が造られ始めます。

京都宇治川の古墳群と似ていて、先行的に古い方墳系の墓式を擁する集団から距離を置いたところに、前方後円墳が現われます。旧い集団は勢力を維持しますが、それら両者とも距離のある場所にも前方後円墳墓式を擁する集団が現われ、ついには先行集団の勢力は衰えていきます。4世紀後半ころに墓式の斑な移行期的状況は、有力集団では完了してしまったようです。

雪野山古墳

「観峰館」で開かれていた雪野山古墳の出土物の展示を先ず見ました(書はちょろっと見ただけ)。雪野山古墳は珍しく未盗掘で、標高308m、平地部から200mの独立した山の頂上に造られています。イノシシか鹿よけのフェンスの扉を開けて、かなりの急阪をハイキング気分でやっとのことで上り切り、前方部と後円部をつなぐ穏やかな斜面を上り、発掘埋め戻しの方形のある墳頂部に出ると、パッと琵琶湖への視界が広がります。南北の稜線伝いのコースの方が若干緩く、恰好のハイキングコースのようで、2組の高齢のペアと出くわしました。

安土瓢箪山古墳

安土瓢箪山古墳はついでに立ち寄った古墳ですが、時代的には雪野山古墳と同じころで、石製出土物が古式で若干早いとも、規模やから後出とも言われているようです。当時は湖岸線は山に近く、この古墳は湖水から見上げて恰好の場所で、この古墳の主は琵琶湖水運の要を握っていた集団の首長墓と考えられます。雪野山古墳が、ヤマトの王権と密接な関係の首長墓と考えられますが、それ以前に、複数の集団が琵琶湖の水運を握っていたようです。

この2つの古墳は性格が違うようです。

神郷亀塚古墳

神郷亀塚古墳は、3世紀前半の前方後方墳です。元々全長36m高さ4mとされ、前方部は掘り崩されて高さのある細い上り路程度のものとして残存しています。周濠を持ち、5世紀頃の墓戸遺跡や祭祀場があることから、時代を下がっても「尊崇」されていたようです。前方部を含む1段の上に、2段構造の後方部の上に竪穴を掘り下げて木槨の棺を葬り、土で覆うという墓式です。土器(弥生)を小さく破砕して墳墓上や墓坑に撒く、現在でも北近畿その他でその遺風を量ることのできる祭祀があったようです。

畦を横切り畑の畝の間を歩いて、この古墳を探している途中、畑作業をしていた高齢の女性に場所を尋ねたところ丁寧に教えてくれました。ついでに、乎加(おか)神社に。二礼一拍一礼式の参拝を済ませると、台風の倒木を片付けていた村の人に「ありがとうございました。」と丁寧にお礼され、恐縮して、神社を離れました。

寺社と村民の密接な在り方、それも湖南至る所でそのような寺社があることで、単なる思い付き仮説を同行者に提起しておきました。「近江商人は、寺社と結びつき、その庇護・擁護の関係で力を保とうとしたんとちゃうかな?」と。

1日目はここまで。泊りは八日市駅前のビジネスホテル。夕食は、近くの飯屋風の超大衆的な食堂へ、食べて飲んで風呂に入って1日の疲れをとりました。

荒神山古墳

彦根市、荒神山古墳は、安土瓢箪山古墳に次ぐ大きな古墳で、時期的にもその後ということです。平らになった後円墳丘上に大きな穴があり、どうも盗掘を受けているようです。また墓があり私有地です。荒神山神社の裏少し離れたところに在りますが、荒神山神社拝殿-本殿のラインが琵琶湖に向かっているのに凡そ直角の方向にこの古墳が位置します。神社拝殿も形態が少し特殊なのが気になります。

そもそも、土産購入のために彦根に向かい、ついでに寄った古墳です。彦根城と庭園の散策後、土産ものの和菓子屋に入ったところ店の写真を見て「きなこをまぶした」団子を買おうとしたら「抹茶だ」ということ。井伊の殿様の食した銘菓だと女性店員の「威張った」口調に負けて買いました。ぜんざいでも食べようと街に出たのに、修学旅行生と高齢旅行者(自分たちも)で満員のこれも有名な蕎麦屋で、昼の腹ごしらえをして、今回の予定はおしまい、帰宅へ…