2016年11月9日水曜日

狭山池博物館へちょこっと

コーヒー友達AMIM氏と予定していた「滋賀湖東の古墳」見学を、雨のため、屋根付きの狭山池博物館に変更して行きました。『どこかのTV番組で、狭山池周辺の住民に穴場を尋ねたら、誰もかれも「狭山池博物館」と言う上に、確か前の知事が「廃止」を言った建物だと思うので見て置かないか』との提案に乗って、見に行きました。

途中、道案内に「みはら歴史博物館」というのがあったので、「ついで!」とハンドルを切りました。小さな館に入ると(65才以上無料)、梵鐘工房遺構が覗け、鉄窯・鉄鍋などが展示、この辺りには「河内鋳物師いもじ」という鋳造技術集団がいて、平安時代から室町時代にかけて、梵鐘などを高い技術で製作していました。特に、興味を引いたのは、奈良東大寺の大仏は、製作技術が未熟で、ひびが入り、ついには頭が落ちたそうです。これを修復したのが河内鋳物師たちだったそうです。

別室には古墳時代の甲冑が展示、1体でなくズラッと並んでいました。兜は、ツングース系です。

古墳時代の甲冑。右奥下段に頭飾りの付いた兜。

近くに前方後円墳の「黒姫山古墳」があります。雨に濡れながら、訪問しました。この周辺を支配する多比たじひ氏の墓と言われています。時期的には、百舌鳥―古市の中期古墳全盛期でありながら、百舌鳥にも古市にも属さない、形式的にはまさに中期古墳ですが独自の古墳です。埋葬主体のあった後円部は盗掘破壊されましたが、前方部に鉄製武具用の竪穴石室があり、鉄の甲冑など武具が大量出土し、特殊です。大王の軍に最新、最強の武装を整えるだけでなく、自らの最強の軍団を有する氏族だったのでしょう。


黒姫山古墳全景。左が後円部。右が前方部。
 
前方部中央に復元埴輪が見える

次に向かった狭山池博物館は、近づくと「城」か見紛うほどデカい建物でした。正面から入館すると、一旦2階分下に下されまた2階分階段を上って入口、狭いその階の展示物を見るとまた階段を2階分降りてメインの展示状へ、最近の改修工事で発掘された堤や樋、近代の改修工事の樋口の実物展示、行基、重源といった古代、中世の改修工事「責任者」の説明展示を見ました。意外と、律令国家といってもその成立期だけかも知れませんが、「戦略的な」「大規模な」国家事業を行ったのが分かります。AMIM氏曰く「日本人は昔から土木事業大好きだったんやで…」
最初の築造は7世紀初め(木材から)で、大規模な改修は、奈良時代に2度、中世に1度、戦国末に1度と、その他にも小規模な改修も何度となく行われています。狭山池博物館は1998年から始まった大改修の際に造られました。


狭山池を見る。古代の人がよくもまぁこんな…
 
ダム堤から博物館を見る


ダム堤内の木樋。木棺からイメージされた??
 
ダム堤の構造。改修で何層にもなっている。

それにしても、建物内空間の大きさに比べて、展示物の占める空間の小さいこと、展示品の少ないこと、見学者の少ないこと。ほとんどが見上げる壁…。二人の会話「廃止しようにも、他に使いようがないなぁ…」「上がったり下がったりの訳の分からん動線、素のコンクリート肌、一人よがりさ、金食い虫。これ安藤なんとかの建物ちがうか?」。帰って調べると安藤なんとか氏の設計でした。

今回は、飛び入りで訪れた「黒姫山古墳」で儲けた感がありました。